『人間の限界』
『人間の限界』
ウイルスとは不思議な生き物で、生き物であっても生物ではない。もちろん人間が決めた基準でしかないが、生物にはいくつかの要素がある。細胞膜がしっかりしているというような要素もあるが、一番大きなのは自己増殖能力をもっているということである。
その方法としては子どもを産む、卵を産む、種や胞子をつくる、細胞分裂をするなどいろいろあるが、ウイルスにはこの自己増殖能力がない。だから新型コロナウイルスは人間の細胞の中に入り込み、人間の細胞と一体化しなければ増殖できない。
そういう性質をもっているから、細菌と違ってウイルスは宿主と共存する他ないのである。即ち宿主を次々に殺してしまえば、ウイルスもまた生きることができなくなる。ゆえに一般的な法則としては、ウイルスは毒性を弱め、逆に感染力を強めるかたちで変異する。最終的には風邪のウイルスのようになっていくことが理想で、風邪なら人々が過度に警戒しないから、宿主を求めて自由に動き回ることができるだろう。
とともにウイルスは、たえず変異する生き物なのである。新型コロナウイルスでいえば、デルタ株が流行していたときにも、感染の後半は重症数、死者数が感染者数の割には減少していた。おそらくそういう方向で、小さな変異をくり返していたのである。そこにオミクロン株という大きな変異株が現れた。どうやらこの株は重症者数、死者数ともにかなり少ないようで、ありようとしてはインフルエンザに近づいてきたように見える。
もちろん変異の過程では、逆に毒性の強いウイルスが発生する可能性もあるが、不思議なことにウイルスは同じ宿主を必要とするものが、数種類同時に蔓延することはできないらしく、つねに感染力の強いものが他を圧倒するかたちで展開する。
だからオミクロン株が広がればデルタ株が消えていくし、新型コロナウィスが広がるとインフルエンザウイルスが活動できないというようなことが生じてくる。そういうことがあるから、おそらく毒性の強いウイルスが発生しても、それは広く活動の場を獲得することはできないだろう。
二年ほど前に中国の武漢で新型コロナウイルスが広がり、たちまちそれはヨーロッパ諸国やアメリカなどに広がっていった。そのときの武漢やイタリアなどの映像は、多くの人々を凍りつかせた。性格のわからないウイルスが襲いかかってくるような恐怖が、このときはあった。
それから二年ほどがたち、依然として感染者数は多いものの、どこの国でもかなり冷静に対処することができるようになってきた。特効薬はなくても、医療機関は経験的に対処方法を確立してきた。ワクチン接種もすすみ、さらには抗ウイルス薬の使用もはじまった。
だが、重症者や死者の割合を減少させた要因としては、ワクチンや治療法の確立よりも、ウイルス自身の変異の方がはるかに大きかったのである。ワクチンは感染防止や重症化の阻害に多少の効果はあるようだが、絶対的なものではないこともわかってきた。どうやら多少はいいかなという程度のようだ。
その効力と自然界にはありえない遺伝子を体に入れる不安のどちらが大きいかは、それぞれの判断に任せるしかない。断定的な結論を出せるデータは、まだ存在しないからである。この二年間に経験を重ねながら治療法をみつけだしてきた医療関係者には頭が下がるが、そのことが新型コロナ感染症を撃退したということでもない。
しかし、感染者は拡大しても、重症者の割合も、死者の割合も、かなり減少してきた。この現実をつくりだしたほとんどの要因はウイルス自身の変異だった。ウイルスが人間と共存する方向で変わっていったのである。
自然がもっている力と比べれば、人間の力はたいしたものではない。新型コロナウイルスをめぐるこの二年間の経緯も、そのことを私たちに教えていた。人間たちの努力を軽視する気はないが、人間にはほんのわずかなことができるだけで、主導権をとりつづけたのは、新型コロナウイルスという自然界の生き物の方だったのである。
おそらく新型コロナウイルスを完全に押さえ込むワクチンや治療薬は、これからも開発されないだろう。なぜなら新しいワクチンや治療薬ができれば、それらに対応するかたちでウィルスもまた変異していくからである。
さまざまな努力をしながらも、人間の限界を知る。そして変異していくウイルスと共存できる方法を人間の側もまた考える。そいうことしか人間にはできないのだということを、私たちはもう一度みつめなおさなければならない。自然を押さえ込むことに正義をみいだした欧米の思想は通用しないのだということを、新型コロナウイルスもまた教えているのである。
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写真:中沢 和彦
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※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム
「山里紀行」より第369回『人間の限界』より引用しています。
(2022年2月発行号掲載)
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