内山 節 ライブラリ

『戦争と自然』

『戦争と自然』

私の友人に河川工学者の大熊孝がいる。川と共生できる社会のかたちを追求してきた河川工学の分野では異端の学者で、数多くの著作を発表してきた。

大熊の父親は台湾総督府の役人だった。台湾ではかなりよい生活をしていたらしい。だが、敗戦となり、子どものときに日本に戻ってくる。台湾で高級官僚としての生活をしていただけに、敗戦後の混乱する日本でしぶとく生きていく力強さは両親にはなかった。千葉の海岸近くの家を借りたものの、生活は困窮を極めた。大熊は小学校から帰ると、毎日砂浜に出かけたのだという。そこではアサリが大量に採れた。それが毎日の食糧になった。

敗戦後の日本は、まさに国破れて山河ありを実感する状況だったという。国は崩壊状態である。しかしすばらしい生産力をもつ日本の自然は健在だった。この自然が大熊の生活を支えた。自然を壊す河川改修をしてはいけない。自然と共生できる社会をつくらなければいけない。

もちろん自然はときに猛威を振るう。だがそのことだけに目を覆われて自然を壊してしまったら、社会のもっとも大事なインフラと、自然に対する畏敬の念を私たちは失うことになる。課題は川を壊す河川改修ではなく、川と共存できる河川改修であり、社会づくりである。大熊はそういう視点から、不要なダム建設などに地域の人々とともに反対してきた。

敗戦後の日本では、多くの人たちが戦地や旧植民地から引き上げてきている。その人たちの暮らしを、たとえ一部であったとしても日本の自然が支えていたことだろう。燃料になる薪はむろんのこと、山菜や茸を生みだす森があり、森の生産物の一部は販売もされていった。豊かな川があり、豊穣の海もあった。開墾すればたちまち作物をつくれるような大地もあった。多くの人たちが、苦労を重ねながらも、日本の自然に支えられて敗戦後の苦しい生活を乗り切っていった。

もう一人、私の友人に写真家で映画監督の本橋成一がいる。彼はウクライナのチェルノブイリで原発事故があった後にベラルーシの農村に入って、何本かの映画を撮っている。この原発事故では東ヨーロッパ一帯にも放射性物質が飛来したが、ベラルーシのウクライナ近くの農村でも、高濃度に汚染された地域があった。このような地域では、計測すると生活することが危険なほどの汚染があり、政府も退去をすすめる状況だった。

だが、本橋の映画に映し出されている農民たちは、村を去ろうとしない。村の自然とともに暮らしてきた日々のなかに自己も家族も存在していて、この自然から離れてしまったら自分たちの存在も消滅してしまうのだということを、村人たちは知っているからである。村を包む大地との関係が自分をつくりだしている。だからその関係を失うことは、自分というものを消滅させることでもある。

映画を観るかぎり、その大地はさほど豊かな土地ではない。寒い冬を前にして、農民たちはジャガイモを収穫し備蓄する。しかしそのジャガイモは丸々とは太っていない。生活のためには幾らかの現金も必要だから、村人は山に入って蔓を切り、その蔓で籠を編む。その籠を近くの町に売りに行き、その売り上げで必要なものを購入して帰ってくる。秋には森に茸を採りに行く。森の木を切って大量の薪をつくる。

村人が共同で利用する泉があって、この泉の水は安全だと信じられている。そんなはずはないと行政が検査をしたことがあったが、不思議なことに泉の水から放射能は検出されなかった。

本橋の映画からみえてくるものも、自然とともに生きる人々の姿であり、自然に支えられた時空のなかに自分たちの生があると感じている人々の姿である。もちろんこの村で暮らすことが安全なはずはない。だがこの大地から離れてしまったら、自分をつくりだしているすべても失うことになるだろう。

今年の二月にはじまったロシアによるウクライナへの侵攻。報道されているのは、ロシア政府という人間たちの政府が、ウクライナという人間たちの社会に侵攻し、破壊していく様子だった。秋になってウクライナ軍が反撃を開始し、ロシアが劣勢に立たされはじめてはいるが。だが戦争は、人間社会の出来事ばかりではない。ロシアが侵略しているのは、ウクライナの大地や自然に対して、でもある。

もちろん私も、一刻も早いロシアの敗北とロシア軍のウクライナからの撤退を願っている。だが戦争は、自然に対する畏敬の念を捨てた時代の出来事でもある。人間の都合や妄想だけが支配する戦争。私は、自然とともに生きるウクライナの農民たちが勝利し、それを支えたのはウクライナの自然だったということが、世界に発信される日がくることを願っている。

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写真:中沢 和彦
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※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム
 「山里紀行」より第378回『戦争と自然』より引用しています。
(2022年11月発行号掲載)
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