内山 節 ライブラリ

『自然の流れ』

『自然の流れ』

パリに滞在するときは、セーヌ川に近いオデオンのあたりにホテルをとることが多かった。ときどき、近くにあるリュクサンブール公園に散歩に行った。東京でいうと、日比谷公園という感じである。

といっても、日本で暮らす私からすれば、フランスの公園はさほどよいものではない。木々が植えられていても自然があるという感じはしなくて、シンメトリーを基調にした幾何学模様が公園全体を支配している。人間が考えた造形が植樹によってつくられているだけなのである。基層的な文化が違うのだから、仕方のないことなのだけれど。

最近では、繰り返し日本を訪れてくる外国人も多くなった。一番多いのは台湾、韓国からの訪問者たちで、中国からの旅行者も過半数が個人旅行になってきている。インドネシアやマレーシアなどのアジア各地からの人もふえているし、欧米からの旅行者も多くなった。日本は治安もいいし、外国人には割と親切な人が多いから、安心して個人旅行が楽しめることがネットなどで伝えられるようになった。

繰り返し来ている人たちが日本の何に魅力を感じているのかといえば、全体としての日本の社会のあり方だといってもよい。自然が好きな人からみれば、亜寒帯から亜熱帯までの自然があり、その自然と調和した町や村、漁村などがある日本は魅力なのである。さらには寺社なども京都や奈良などにある有名寺社だけでなく、街角にも村にも寺社があって、地域社会のなかに溶け込んでいる雰囲気も悪くない。

買い物に出かければ高級店から百円ショップまでがあり、百円ショップでも品質はしっかりしている。調理器具を売る店が軒を連ねる浅草の合羽橋商店街や、さまざまな電気部品がそろう秋葉原、いろいろな布地のある問屋街など、好きな人なら何時間でも過ごせる場所もある。飲み屋、居酒屋も人気で、新宿のゴールデン街などは外国人旅行者の街になってきた感じさえする。

レストランも多様だ。ラーメンも人気があるし、和食でも高級店から定食屋までがあって、どこに行ってもけっこう美味しい。温泉も人気だ。そういうすべてのものが、「日本文化」として認識されるようになったのである。暮らしと密着した文化、社会のなかに埋め込まれた文化として。

路地裏を歩いて行くと、職人の工房や昔ながらの店があったりする。家の前には鉢植えの花や灌木が並んでいる。その辻には地蔵が祀られていたり、小さな社があったりする。その路地を抜けていくと、不意に大きな寺や神社が現れてくる。そういう場所がネットで紹介され、それをみて足を伸ばす外国人も多い。

すべてのものを包含したそんな社会のあり方全体が、訪れた人たちに「文化」を感じさせるのである。日本の社会は異文化を感じさせるのに、旅行者たちがすぐになじめる社会でもある。

考えてみれば、私たちが外国を訪れるときもそうである。はじめて行ったときは、日本でもよく紹介されている有名な場所を訪れることが多いだろう。しかし何度か出かけると、庶民がつくりあげた「文化」を感じられる場所に足を伸ばすようになる。そしてそこによいものを感じると、また行きたい場所になる。

その庶民がつくりあげた「文化」に、日本ではどことなく自然が流れているのである。農山漁村などに行けば、間違いなく庶民のつくりあげた自然と人間の世界がある。温泉もその「文化」のひとつである。

だがそれだけではなく、たとえば合羽橋で売られている多様な調理器具から感じられるものも、食材を活かすためにつくられた道具の魅力なのである。食材がもっている自然を活かすために、日本ではさまざまな調理器具が生まれてきた。最近では日本の包丁もヨーロッパに輸出され、出刃包丁などは「出刃包丁」で通じる国が生まれているけれど、日本の多様な包丁も食材の自然を活かすための道具である。

路地裏に自然を感じ、飲み屋や居酒屋にも人間の自然さを感じる。森や川、海だけではなく、都市の暮らしのなかにも自然が流れている。そんなふうに感じる外国人が多いのである。

以前にパリで一人のフランスの若者に出会った。彼は「つい最近東京に行った」と話してくれた。「どうでしたか」と聞くと、「東京で禅を感じることができた」という返事が返ってきて、私の方が困ってしまった。私からすれば〈東京にそんなことを感じさせる場所があるのですか〉という感じである。しかし、彼はそう感じたのだろう。

フランスでは「ZEN」という言葉は普通に使われていて、禅宗とか禅寺という意味より、静けさ、深さ、という意味で使われることが多く、奥に自然が流れているという意味なのである。

とすると、自然が奥に流れている社会の価値を、私たち自身が再認識しなければならない時代を迎えているのかもしれない。

===============================================
写真:中沢 和彦
日本の森を守るため、森づくりフォーラムへのご支援をよろしくお願いいたします。
https://www.moridukuri.jp/member/donation.html
※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム
 「山里紀行」より第326回『自然の流れ』より引用しています。
(2018年7月発行号掲載)
★ 大日本山林会 会誌「山林」についてはこちら
=
==============================================


プロフィール

内山 節 (うちやま たかし)哲学者

森づくりフォーラム代表理事
1970年代から東京と群馬県上野村の二重生活を続けながら、在野で、存在論、労働論、自然哲学、時間論において独自の思想を展開する。2016年3月まで立教大学21世紀社会デザイン研究科教授。著書に『新・幸福論 近現代の次に来るもの』『森にかよう道』『「里」という思想』『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』『戦争という仕事』『文明の災禍』ほか。2015年冬に『内山節著作集』全15巻が刊行されている。

内山 節オフィシャルサイト