『自然の本質』

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
『自然の本質』
新年を迎えた上野村で私の家を包む自然を眺めていると、つくづく自然とは何かがわからなくなってくる。ときどき小鳥たちが群れをつくって庭に来て、また森へと帰っていく。この小鳥たちにとって自然とは何なのだろうか。森や里の世界はどんなふうにみえているのだろうか。
正月は家の裏山の木や竹を切っていた。仕事に一区切りをつけるとサルたちがやってきて、私の仕事跡を点検して歩いていた。家の横をサルの群れが歩いているのは困ったものなのだけれど、このサルたちにとっては自然はどんなふうにみえているのだろうか。
人間たちの錯覚のひとつは、自然はひとつだととらえるところにある。自然という固有の世界があるというとらえ方である。これは近代になって欧米から学んだ発想であって、伝統的な日本の思想はそういうものではなかった。日本の伝統思想にしたがうなら、自然は多様に存在しているのである。
なぜかというと、それはこういうことだ。本当の自然、唯一無二の自然はどこかにある。それが自然の本質だ。ところが人間は、その自然をとらえることができない。なぜなら人間がとらえている自然は、人間によって認識された自然であり、人間の意識がみいだした自然だからである。人間の意識というフィルターのかかった自然なのである。それは本当の自然ではなく、人間の意識がみいだした自然にすぎない。
日本の伝統思想はそういうふうに考えてきた。だから、人間がとらえた自然も、小鳥やサルがとらえた自然も存在する。意識というフィルターの架かり方が違うのだから、それらは同じ自然としてとらえられてはいない。
さらに述べれば、人間たちもまた同じ自然をみてはいないのである。たとえば上野村の人間がとらえている自然と、東京で暮らし、はじめて上野村を訪れた人にみえている自然は同じではないだろう。前者は、村で自然に包まれながら暮らしている人たちの意識がつかみとらせた自然であり、後者は都会からきた観光客の意識がみている自然である。
上野村の人間がとらえている自然もまた多様である。林業従事者たちは、林業という視点からみた自然を認識している。といっても代々林業をしてきた家の人たちがみている自然と、最近森林組合に加わって山仕事をはじめた人たちのみている自然も同じではない。上野村でも、広葉樹を活かした林業を試みている人たちがいるが、そういう人たちと人工林型の林業をすすめている人のとらえている自然も、同じではないだろう。
秋には茸とりに山に入る人たちの自然、冬には狩猟をする人たちの自然、私のように釣りをする人の自然。ここでみえているものも、ひとつではない自然である。生態学というフィルターを架けたときみえてくる自然もあるだろうし、河川工学者たちからみえる自然もある。
二十世紀初頭に活躍したフランスの哲学者にベルクソンがいる。彼は自然科学は自然のほんの一部のことしかわかっていないのだと述べた。にもかかわらず自然科学は、自分たちの知りえたことが自然の本質だという態度をとり、それをすべての人間たちに押しつけてくる。これは自然科学の暴力にすぎないとベルクソンは考えていた。
日本の伝統思想は、ベルクソンのこの指摘よりも、もっと深いところをついていたのかもしれない。自然の本質はどこかにあるとしても、自分の意識をとおして自然をとらえる人間たちには、それはとらえられないものとして存在しているというのが日本の思想である。
ただし、自然の本質を意識の外で感じとることはできる。無意識のうちに自然を感じとることは可能だからである。だがそうやってとらえられた自然を、人間たちは語ることができない。語ろうとすれば意識された自然に変わってしまうからである。
こうして日本の人間たちは、自然のなかに神仏を感じるようになった。語りえぬ本質、人間の意識によってではとらえられない本質が自然の本質だとするなら、それは人間の手の届かない本質であり、神仏の世界としてとらえるしかないという視点をつくったのである。ただし、感じとる世界では、人間は神仏の世界とも結ぶことができるのだが。
上野村には、私にみえている自然がある。私にとってはそれが自然だ。だがそれは他者にとっての自然ではないのかもしれないし、小鳥やサルたちのみている自然とも違うだろう。とすると私は、新年を迎えた上野村で、私にみえている自然を楽しみ、しかしその自然の奥には、私には到達できない自然の本質があるということになる。
そんなことを考えながらみていると、私は自然のおもしろさに引きずり込まれていく。
===============================================
写真:中沢 和彦
日本の森を守るため、森づくりフォーラムへのご支援をよろしくお願いいたします。
https://www.moridukuri.jp/member/donation.html
※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム
「山里紀行」より第321回『自然の本質』より引用しています。
(2018年2月発行号掲載)
★ 大日本山林会 会誌「山林」についてはこちら
===============================================