『「待つ」ということ』
『「待つ」ということ』
伝統的な日本の社会では、つねに「待つ」時間が存在していた。春がくるのを待って田植えの準備をする。稲刈りのためには稲穂が垂れるときを待たなければならない。林業では数十年、ときに百年を超えるときを待たなければならないし、薪をとる里山でも一度伐採をすれば、次の伐採には一五年から二〇年くらいのときを待たなければならない。
そのときがくるのを待ち、そのときがきたらただちに対応する。そんな暮らし方をしていたのが伝統社会の人々であり、自然とともに生きる人々の暮らし方だった。
自然は人間の都合で変更することができない。だから自然とともに生きた人々は、自然がそのときをつくりだすのを待った。そうして、こういう生き方をしていた人々は、人間や社会のとらえ方のなかにも「待つ」という考え方があった。
子どもが大きくなるのを待つ。病気になれば治るときを待つ。共同体の意思決定に際しても、みんなが合意できるときを待つ。柿が熟すときを待つように、すべてのことを、「熟す」のを待つかのように判断し、行動していた。
ところが近代的な世界が生まれると、人々は「待つ」ということに価値をみいださなくなった。近代を支配した価値観は効率である。効率は時間を節約することによって成り立っていて、工場では生産効率を上げることが何よりも大事になった。
それは流通でも同じことで、近代社会は時間の短縮をめぐってたえず「改革」がおこなわれる時代を生んだ。「待つ」ことは愚鈍で時代遅れの考え方になったのである。
とともに近代的な世界は人間中心主義とでもいうべき考え方を定着させた。天上の神を別にして、人間が地上の支配者になった。自然は人間の道具として捉えられ、人間の都合で利用したり、破壊してもかまわないものになった。
今日では環境の維持が叫ばれているけれど、それも多くの場合は、環境が破壊されると人間社会にとって不利なことが発生するというもので、いわば人間のための環境政策に他ならない。もちろんそれとは異なる環境思想も存在するが、大半は人間中心主義にもとづく環境政策である。自然はともに生きる仲間ではなくなっている。
時間を短縮して効率を上げるという発想も、人間中心主義の思想と結ばれている。なぜなら時間を短縮して利益を得るのは、人間以外に存在しないのだから。
今年も私は上野村で新年を迎えた。年末には恒例の餅つきをおこない、多くの人々が集まってくる。昨年も七十臼ほどの餅をついている。そんな年末が終わり、我が家にも静けさが訪れる頃私は新年を迎える。
冬の風の音と、庭を訪れてくる鳥たちの鳴き声。秋に入る頃まではさかんに姿をみせていた鹿たちも、十一月十五日の猟期に入ると忽然と消える。山奥に逃げたのだろう。上野村には狩猟をする人が百人くらいいるのだから、鹿も真剣である。ちょろちょろしていた狸も姿を消す。おそらく自分も狙われていると思っているのだろう。
こうして訪れた静かな正月。森の木々は、春になって再び葉を伸ばすときがくるのを待っている。鳥たちも巣をつくる春がくるのを待っている。自然はいつでもそのときがくるのを待っている。
といっても何もしないで待っているわけではない。待つことができる態勢をつくって、待つことのできる時間を成立させているのである。とともに、春が訪れてきたら一気に活動を開始する準備も怠りなくすすめている。待つ時間を生きる態勢をつくり、そのときがきたら動きだす準備もぬかりない。だからこそ自然は待つという生き方をすることができる。上野村の家で自然の動きをみていると、私にはそんなふうに感じられてくる。
今年に入っても、ウクライナでは戦争がつづいている。そしてここにも、待つことを失った社会の悲惨さが潜んでいる。
もしもロシアが大ロシアを形成したいのなら、周辺国の人々がそれを望むときを待たなければならなかったはずだ。武力で統合したとしても、それでは抵抗闘争を生むだけである。人々がロシアとともに生きることを望むようになるには、どんなことをすればよいのか。待つ時間をつくりだすという試みではなく、効率よく軍事力で支配しようとしたとき、ロシアの企みはいずれ失敗する運命にあった。
それはいまの日本でも同じことだ。中国や北朝鮮が変わっていくときを待つ。そのために待つことのできる態勢をつくり、それらの国に変化が現れたときにはどうするのがよいのかを準備しておく。軍事力には軍事力で対抗するというような発想ではなく、待つために、待つことのできる態勢を創造する。そういう発想が今日の日本にも必要なはずだ。
自然とともに生きた人々は、待つことの価値を知っていた。
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写真:中沢 和彦
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※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム
「山里紀行」より第381回『「待つ」ということ』より引用しています。
(2023年2月発行号掲載)
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