内山 節 ライブラリ

『自然への畏敬』

 落葉樹の木々が赤みを感じさせるようになると、春は近づいている。冬芽が芽吹きの準備をはじめると赤みを帯びてくるのだけれど、上野村の森の木々も、少しずつそんなことを感じさせるようになってきた。寒い日がつづいていても、森はいずれ春が訪れることを知っているのだろう。

 フキノトウや太くなったノビルが姿を現すようになると、上野村は山菜の季節に入っていく。その頃は梅の花が咲きだしていて、村の神社では毎週どこかで春祭りがおこなわれている。しばらくすると山に山桜の花がみえるようになって、その頃には足下でスミレが咲き乱れている。山の芽吹きがはじまり、村はたちまち春から初夏へと向かっていく。

 人間たちは不確かな世界で生きているけれど、自然や自然とともにある村の営みは、確実な世界を展開しつづける。

 長い歩みのなかで、人間たちはいろいろなものをつくりだしてきた。家をつくり、村や町もつくった。国や政治の仕組みなどもつくった。電気製品、自動車、兵器、実に多くのものをつくりだしてきたものだ。それらは人間の暮らしに便利さを与えたが、安心できるもの、確信をもてるものを生みだすことはなかった。

 むしろいまでは、村や町のいたるところで将来への不安がでてきている。過疎化や地域の衰退は、そこで暮らす人々を委縮させる要因になった。国や政治も私たちに不安を与える要素になりはじめている。国の財政が破綻したら私たちはどうすればよいのか。社会保険制度は持続可能なのか。政治はわれわれの社会をどこに導こうとしているのか。人間たちはさまざまな兵器をつくってきたけれど、それは私たちに安心感を与えるものではなく、もしかすると戦争が起きるかもしれないという潜在的な不安をもたらす要因になっている。

 こんなふうに考えていくと、人間たちは、本当に安心できるものを何もつくりだせなかったのではないかという気持にもなってくる。

 人間がつくりだしたもののひとつにお金がある。これは、ものすごく便利なものだった。それは何とでも代えられる交換財であり、お金さえあればとりあえず生きていけるという便利さをもっている。だがいまではそのお金が人々に不安を与えている。自分のお金が減少していくという不安、老後資金の不安、経営への不安。お金もまた安心できる要素ではなく、むしろ、不安を生みだす要素になってしまっていた。

 考えてみれば人間たちが生みだしたものは、自然がつくらなかったものばかりだ。そして気がついてみると、自然は確かなもの、信用できるものをつくり、人間は便利さと引き替えに、不安の原因を数多く生みだしてしまった。

 おそらく昔の人々は、そのことに気がついていたのだろう。自然とともに暮らしていればいるほど、自然がつくりだしているものと人間が生みだしたものの違いは、よくみえていたはずである。確かな営みをつづけていく自然と、自分たちが生みだしたものが不安の原因になってしまう人間との違いが。

 そういう思いは、自然こそが真理を実現しているという意識を醸成していく。正しい生き方をしているのは自然の方にあり、人間は愚かなことをくり返しているのではないかという感覚である。そして、その気持ちが日本の自然信仰の基盤になった。自分たちがつくりだしたものに自分たちがおびえていくという愚かさを感じれば感じるほど、けっしてそんなことをしない自然に、人々は畏敬の念を払った。

 三月に入ると上野村の川は釣りの解禁を迎える。私が上野村に行くようになった理由は、もともとは釣りにあったのだから、いまでも解禁という言葉を聞くと川の水音に引き寄せられる。といっても私の釣りはテンカラ釣りという日本式の毛鉤釣りで、それができるようになるのは四月の終わりくらいからである。川の水が冷たい間は、魚たちは毛鉤には飛びついてこない。山桜やスミレの花が咲く頃が毛鉤釣りの解禁である。といってもその季節まで待っているわけでもなく、それまでは私もエサ釣りをすることになるだろう。

 そんなふうに、自然とともにある営みは、毎年同じことがくり返される。冬の後半に赤みを帯びはじめた木々がやがて葉を伸ばし、夏の営みを終えると紅葉しながら冬の準備をすすめる。自然は毎年同じことをくり返し、その繰り返しのなかに自分たちの生きる世界を広げていく。

 そして村人たちも、太古の昔からの記憶に基づいて、毎年同じことをくり返す。畑を耕し、山菜を採りにいき、川岸に生えたセリを食卓にあげる。そういう確かさが、大事なもののように感じられる時代を私たちは迎えている。 

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※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム「山里紀行」より
 第322回『自然への畏敬』より引用しています。
(2018年3月発行号掲載)
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