内山 節 ライブラリ

『問い直し』

『源氏物語』の「夕顔」の巻にこんな一節がある。
光源氏が夕顔と一緒に朝を迎えたときのことである。

<<明け方も、近うなりにけり。鳥の声などは聞こえで、ただ、翁びたる声に、
 ぬかづくぞ聞ゆる。起居のけはい、堪え難げに行ふ。いと、あわれに、
 『朝の露に異ならん世を、何にむさぼる、身の祈りにか』ときき給ふに、
 御嶽精進にやあらん、「南無當來道師(なむとうらいどうし)」とぞ、拝むなる。
 『かれ聞き給え。この世のみとは、思わぞりけり。』と、あはれがり給いて、
 優婆塞(うばそく)が 行う道を しるべにて 来ん世も深き 契りたがふな」>>

昔の日本の人たちは、いまの私たちとは違う世界を見ながら暮らしていた。
この一節は、

<<明け方も近くなったが、鳥の声は聞こえないで、老人の苦しそうに祈る声だけが
 聞こえていた。
 その声を聞きながら光源氏は、朝露のごとく短い生の中に生きる人間が、
 自分やこの世のために何を祈っているのだろうかと思っていると、その老人は
 山岳信仰の信者であった。行者は「南無當來道師」と弥勒菩薩に祈っている。
 弥勒菩薩は五十六億七千年後にすべての人たちを救済するために現れる菩薩である。
 光源氏は「ほら聞いてごらん。自分やこの世のことを祈ってはいないよ」と言いながら
 「優婆塞のように私たちも永遠の約束を違えないようにしよう」と言った。>>

優婆塞とは正式な得度をしていない、民間の修行者のことである。
最後の歌は、優婆塞がめざしている道を師として、私たちも永遠未来を約束しようと
いうことであるが、そこには私たちも間違えないようにしようという祈りとともに、
優婆塞もまた間違えないでほしいという祈りが重なっているように私には思える。

昔の人たちには、生きるということのなかに祈りがあった。
そしてその祈りをつないでいる人がいた。
はかない人生を生きながらも永遠への祈りがあり、そういう世界で生きているすべての
人間たちに祈りを捧げている人たちがいたのである。

現代世界が失ったもののひとつは、この祈りだった。今日でも希望や願望はある。
だがそれは生きている間に達成することをめざした願望である。
仮に後世にまで認められる業績を残したいという願望を持つ人がいたとしても、
それもまた現世の願望の延長線上にしかない。

ところが『源氏物語』では、はかなき生の認識が、現世を超えた祈りを求め、
この一節では己の祈りと行者の祈りの共振のなかに未来を約束しようとしている。
それに対して今日の私たちは。生の世界を確認できる結果をすべてとして生きるように
なった。

ところが山のなかで暮らしていると、この現代の精神的態度のなかに今日の山村の現実
を生みだした原因があるような気が、ときどきしてくる。私自身は山村の人々も行政も、
大きな都市よりはずっと頑張ってきたように感じられる。

大都市は拡大を続ける人口や経済力に支えられてきただけであって、自分たちで地域を
つくりだす努力をしてきたわけではない。それに比べれば山村の方が、地域を守るための
努力をよほど重ねてきた。それなのになぜ山村の危機はとめられなかったのだろうか。

山村のような伝統的な地域は、もしかすると、成果を上げるとか振興するというような
こととは違う論理で生きてきた世界だったのかもしれないと、いま私は迷っているのである。

たとえば山の木は三代で育てるとよくいう。ところが、成果を求めず、今できることを
やっておこうというかたちで森を育てるのと、三代後には収穫するぞという成果を念頭に
置いて森をつくるのとではやはり違いがある。
成果を念頭におけば、その成果が得られそうになければ人々は離れていくだろう。
実際、地域振興が語られれば語られるほど、その地域は衰退していくという歴史を歩んだのが、村などの伝統的な地域だったのである。

もしかすると、成果を上げるというような論理とは別な思想で歩んできた
伝統的な地域が、現実的な振興という近代以降の論理で動こうとしたとき、
地域もまた行き詰まってしまったのかもしれない。
もちろんこの発送は暴論なのかもしれないのである。
私自身、もしかすると、と迷っているのだから。

だが、そろそろこういう根本的な問題も考えてみなければいけないかもしれない。
現代世界のシステムがいたるところで壊れはじめている時代に、これからの山村の
あり方を考えようとすると、壊れていく現代世界の論理ではもういけないのかも
しれないのである。

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写真:宮田 森平
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※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム
 「山里紀行」より第250回『問い直し』より引用しています。
(2012年3月発行号掲載)
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