内山 節 ライブラリ

『コロナウイルスと森づくり 前編』

(はじめに)
森づくりフォーラムは2020年5月24日にオンラインシンポジウム「新型コロナウイルス以降の森づくりを考える」を開催し、地域の森づくり活動の現況や今後の活動展開について、視聴者を交えてディスカッションしました。
本記事はその前日談です。森づくりフォーラム理事と内山節との昨今の世相をめぐる議論が興味深く、
文字起こしをしたものを抜粋し、許可を得て掲載します。(前編)
登場人物:赤池 円(私の森.jp編集長/森づくりフォーラム理事)、内山 節

赤池
森づくりが好きなひと、自然が好きな人たちのあいだで、コロナウイルスとどう共生するかっていう話は初期のころから出ていましたけど、でも一方で、医療従事者が身近にいたりして、そのひとたちの葛藤をみると、やっぱり彼らに協力しなきゃっていう気持ちにもなったりします。そのことと、政府や社会システムがいまこういう形で管理されることに対する不満っていうのもまたみんな同じように感じているんだなと思います。

内山
分からないことがいっぱいあって、例えば、東京の発症者数っていうか感染者数で一番多いのは世田谷区なんですよね。全般的に言えることは、東京23区は非常に多いんです。それに対して、市の方、立川市とか八王子市とか国立市とかそっちのほうは一桁少ないくらいに少ないんです。なんでその差が出ちゃうのかっていうのがまったくわからないんですけど。立川に住んでいる人といったって、東京の真ん中の方に通勤している人とか、当然たくさんいますし。だから生活形態とか労働形態で言えば、そんなに大きく違わないというか。それなのに、市は少ないんですよね。西多摩のほうはさらに少ないですけど。

 全国的にそういう傾向なんですよ。だから、言えば、自然が多くなるにしたがって感染率が低いっていう感じです。ただ、神奈川県は相模原市とかかなり多いんですけど、あれは病院内の集団感染が多いですよね。だから、病院内感染をこの際除外してしまった場合、市中感染的な人たちだけで言ってしまうと、全国的に人工化された街であればあるほど、感染者数が増えていくという構造なんですよね。僕なんかにすれば、気持ちとしては、自然の空気をできるだけ吸っている方がいいですよと言いたいわけですけど、そんなことかどうなのかはさっぱりわからない。ただ、系統としてはそうなんですよね。

今、上野村の住まいの修理が終わらないので、まだ使えなくて。一応、建築家の人は来月いっぱいにはなんとかすると言っているのだけど、あやしいな、と今までも随分思いましたので。そんな状況であるんですけど、たまに行っては様子を見ています。

上野村は今、ほとんど全部閉じているんですよね。宿泊施設とか。こんなときこそ、村に来て、自然の中でいい空気でもいっぱい吸って帰ってくださいと言いたくなるわけです。ところが村としてどうしても閉じざるを得ないのは、村って診療所が一個しかないわけです。お医者さんひとりでしょ、それで、万が一感染者が出て、その診療所に行ったっていう形になって、そうすると場合によって一週間くらい閉鎖になってしまいます。上野村近くの下仁田・富岡にもうちょっと大きな病院があるんですけど、今でも分業でやっていたわけです。ちょっと診療所では対応しにくいことが分かるとそっちに行ってください、とかですね。特殊な手術が必要とかいうと群大病院とか。

そんな感じでやっていたのですけど、やっぱり入り口は村の診療所ですから、村の診療所が閉じられちゃうと、当然高齢者多いですし、非常に困っちゃうわけですよね。そうすると、ひとりも感染者出さないぞっていうような格好に持っていかざるを得ないという。だから、そういう地域もあって、それがへき地と言われているような地域の大半の状況だと思うんで、こういうこともどうするのかという。これからはむしろそういうことこそ、医師会とかの人たちが真面目に考えなきゃいけないことなんですね。

赤池
すごくそう思います。私も遠野に通っているんですけど、今行けなくて、岩手県のひとたちも戦々恐々としているっていうし、東京から人が来て何か起こったらみたいな、なにかこう圧も感じますし。それをどうとらえるべきかというのも、わたしたち東京スタッフの中でちょっと解決がつかないということが起きているなと思います。

アフターコロナみたいな言い方をすることがけっこうたくさんあって、例えばリモートに関しては一気に広がりましたよね。こうやってズームでしゃべるみたいな。そこで、「個」ということと、「集まる」ということとの関係性がコロナ前と後で少し変わりそうと思ったりしています。

内山
なんでもかんでも集まるのは、気が付いたらけっこう無駄な集まりもいっぱいやっていたということでもあるんで、じゃあこの件はオンラインでやりましょうとか、そういうのはある程度するのだと思うのだけれど、オンラインですべてできるわけでもないっていうことですよね。だからやはり、集まるときには集まらないと、というのはあって。

テレワークをしている会社の人なんかでも、例えば、なにかの事業計画の話し合いをzoomでやる。そうすると顔を合わせてやっているうちは、ちょっとこれどうなのとか言ってやっていればいいわけで、否定するにしても、もっとこう柔らかくしてできる。そうやって話し合っているうちに、じゃあこういうふうに修正してやろうよとか、そういうのが出てくる。

ところがzoomでやっちゃうと、これじゃ採算が合わないとか、そういう話だけがぽーんと出てきて、だんだん険悪になっていくという。そういうことが結構言われているんだけど、あるだろうなという気はします。だから、やっぱり顔を合わせてやっているからこそできることがあるという。

だけど、必要もないのに集まってくる必要もないので、次回はzoomでやろうよ、だけど、三回に一回は会おう。とかそういう使い分けになっていく感じですよね。だから今、ソフトの開発をやっているような人たちは、もともと請け負った仕事を会社の中でやっているようなところがあるので、それは、家でずっと開発やってできちゃったりするんだけど、大半はそうもいかないっていうことだと思うんです。

だから、これをもって、いっぺん、みんな緊急避難的にテレワークとかオンラインとかいう方向にいったんだけど、もう少し経ってくると、使い分けをきちっとしましょうとか、そういうことにむしろなっていくでしょう。あとは、フレックスタイム制を入れて、通勤時間を五月雨式にするとか。そういうことはある程度は進む感じはします。  

小さい会社だと、出ていかざるをえない人は出ていくってなると、そこには電話がいっぱいかかってくるわけですよね。そうすると、出ていっても自分の仕事ができない。つまり、営業の電話もかかってくるし、内部の電話もかかってくるし、全部とって対応していかなきゃいけない。だから、分担ができない。テレワークでもいいけど、電話は転送されないだとか。しかも、電話は代表にかかってくると、問い合わせの内容を聞いて、じゃあ誰々につなぎますって、転送しなきゃいけなくて、そんなめんどくさいことなかなかできないとか結構弊害もあるので、上手に使い分けしましょうという感じだと思います。

赤池
森づくりフォーラムの活動がこのコロナウイルス禍の前後で変わっていくっていうことってあると思いますか。

内山
僕はないと思いますね。というのは、森づくりって人間だけがやっているわけじゃなくて、八割方自然がやっているわけですよね。その森という自然は、コロナが広がろうがなにしようが同じことで。ですから、そのことに対するリスペクトみたいなことがあってこその私たちの活動っていう。人間が力で森を変更させるんだっていう話だったら、一昔前の林野庁になってしまうわけで。

森の力を感じながら、ちょっとぼくらも協力させてくださいみたいな、むしろそういう感じ。変えようがないっていいますか、変えようがないことの価値っていう、それが森づくりフォーラムっていうふうに思っている。ただ、さっき言ったように、会議をやったりするときに、場合によって会議はzoomでやろうとかはあっていいんだけど、基本的にはこの形じゃないんだよねっていうことを分かったうえで、でも、まあ今だからそういう方法も使おうねっていう、その程度の変化じゃないかと思いますけどね。

赤池
さっき内山さんが言っていたみたいに、自然のあるところのほうが、感染者が少ないみたいなことが、なんとなく見えるというか、想像しやすいですよね。エビデンスがなかったとしても、なんとなく私たちの中に「知ってた、それ」っていう感じがどこかにあると思うんです。そういうものが何というか皆の共通意識のレベルが高くなって、皆が森に行きたがるみたいな感じがこれからもっと増えてくみたいなことってないですか。

内山
人によって分裂していくんだと思うんです。森と言わずに自然からいろんなものをもらうっていう場合に、ひとつは、水をもらうとか、木材をもらうとか、今だったら山菜をもらうとか。わかるものをもらうっていうことなんですけど。もうひとつ、例えば元気をもらうとか、そういうわけがわからないんだけど、皆が実感しているものっていいますか、そういうのがあるわけです。

ぼくは、山伏というか修験道っていうかあっちのほうにもだいぶ深入りしているので。そうすると、自然はやっぱり、今風にいうと気を発していて、その気をもらって、自分の生命にしているみたいなところが人間にもあるという感じがします。だから、やっぱり上野村にいるほうが元気になるわけで、それはあの圧倒的な自然から流れてくる気をもらいながら生きている。残念ながら東京のほうにくるとそれが弱くなってくるっていうそんな感じなんですよね。

そうすると、そういうおそらくデータ的には出せない、少なくとも今は出せないっていうもので、だけど昔から人間たちが感じてきたもの、そういうものを、ある程度認めていこうという人たちは、やはり、もっと自然のほうに行こうとかですね、そういうことができてくると思います。エビデンス主義とか科学主義とか、そういう方向でしかない人たちっていうのは、多分それを感じられないし、という。

夏になるとよく滝に打たれています。本来は修験道的には冬の修行なんですけどね。夏にやっているものだから、本物の修験者からは「お前のやっているのは水遊びじゃないか」とか言われているんだけど、水遊びでもいいかなって。なぜかっていうと、滝って強制的に自然の気が入ってくるっていうか、怒涛のごとく水がくるので、そうすると、身体の中の汚い気がいやおうなく押し流されちゃって、どんどん入ってくるという感じです。そうすると健康にも良くなるというか、5分か10分やっていただけでも身体が軽くなる、とか。で、目もよくなっていって前より色が鮮やかに見える、とか。別に近眼が治るとかそういうことじゃないんですけど。

そういうことをいっぺんやると病みつきになるところがあって、毎年やっています。ただそれも、本当になんかいいことがあるのか?とか言われちゃえば、たぶんデータ的には出せないという話だと思います。あるとき、知り合いのお医者さん、その人はちょっと変わったお医者さんではあるんですけど、一緒に滝行をやっていたら、これだけマイナスイオンが出ていてそういう場所で体に悪いはずがないって言っていましたけど、そういう問題なのかどうかっていうのもよくわからない。だけど、そういうわからなさに対する尊敬みたいなもの、尊重みたいなもの、そういうものを持ちながら私たちは生きていったほうがいいんだっていうようなことが広がっていけば、結果的には我々の活動みたいなものにも、なにかのプラスは与えられていくんでしょうっていうことですね。

だから、ただ今みたいに感染阻止か経済かなんて言っている限りはだめでしょうね。はっきり言うと、経済なんてどうでもいいんですよ。そうじゃなくて、社会維持が大事なんです。社会維持をしようとすると、街のお店が経済的に成り立たなくなっていけば、社会維持ができませんし、それは企業なんかも同じですけど、中小企業はみんな倒産なんていえば、社会維持ができないですから、だから、社会をきちっと維持していくために、仕事もできるようにしましょうねとかね。それは大事なんですけど、経済じゃないんですよね。経済は手段であって、目的ではないわけです。だけど今、テレビなんかでは、ニュース見て、経済か感染阻止かって話になっちゃって両方とも間違っているっていうか、さっき言ったように感染阻止なんてできませんよっていう。

そもそもそういうことだし。経済なんて別にどうでもいいんですよ、っていう。ただ我々はみんなが生きていける社会を守っていかなきゃいけない。そのうちにどういう方法で行くのかっていうと、結果としては経済っていうのはある程度必要にはなるんだけど、そういうのもだいぶ変だよなって思っています。だから、阻止か経済かという論法でおかしいなと思わない人たちは、まだしばらくこんな状況下にいるんでしょうという気がします。

後編はこちら

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